春らしくなってきましたね。
今年の3月は夏日のような暑い日があったと思ったら、
次の日は真冬の寒さだったり。
体調管理が大変な冬でした。
今回は常連のNさん、Sさんが欠席で、少々寂しい思いをいたしました。
欠席のNさんからは、原稿をいただいておりますので、それからご紹介します。
前回の「栞の会」の続きだそうです。
本書は六つの章とエピローグで構成され、それぞれ題名が付けられています。
一章のページをめくっていきなり
「雨が降りそうだ。君は声に出してつぶやく。ほんとに雨が降ってきたらどうしよう。・・・」
で始まる6行の文章は、本書を通して貫かれる手法を集約していると思います。
@普通の小説は一人称(私)か、そこにいない人を指す三人称(名前で書くことが多い)で書かれることが多いですが、本書は、主人公を一人称、二人称、三人称と使い分けをして書いており、しかも、なかなか誰か明かされない。
一章は「君」、二章は「僕」だが死者の魂、
三章は「彼女」、四章は「私」だが最後まで名前は明かされない、
五章は「あなた」、六章は「母ちゃん」ですが、
誰の母ちゃんかは、明かされないまま終わります。
これはすぐに誰の母ちゃんか分かりますが。
「君」とか「彼女」とか「あなた」は大分話が進んでから、
他者に名前が呼ばれることで誰か分かるようになっていますが、
誰が?より何が起きているのか?をより読者に印象付けるため
この手法を採っているのだと思います。
「トンホはこう思いました。」という書き方では他人の出来事として終わってしまいます。しかも、
@過去形と現在形が混在している。
普通、小説は過去形で書かれますが、本書は、
主人公の「今」のことを書くときには現在形を使っています。
「トンホは○○した。」より「君は○○する。」の方が読者は緊張し、
劇のト書きのように感じられ、劇の同じ時空に引きずり込まれるような気がします。
そして観客席は劇をしっかり見ようと、目を凝らし、
耳を傾ける観客により静謐な空間を作りだすことになると思います。
@しゃべったところ、思ったところに「 」や( )が一切なく行変えもせず進める。
@強調したいところはゴチックで書かれています。
読み難いことこの上ないです。
もっとも、大きな時間や心象に変化があるときは「*」で行を空けています。
五章のみは「*」でなく「○:○」の時刻マークです。この時間のことですが、
@「次の日のこと」などと時間の断りがなく、いきなり過去に戻ったり現在に戻ったり、
しかも行変えがない時がある。
作者は時間を自由自在に繰って書いている気がしますが、
五章の「○:○」の時刻マークはなぜ使ったのか?
時刻は進められていますが、同一日のことでないので実時間は関係ありません。
題名が「夜の鐘」となっているように起きた出来事を
夕方から明け方をバックにして書きたかった彼女の技巧を思います。
この時刻の表記が、一亥一亥と過ぎていく緊迫した時間を表しています。
しかもなんと!この本は、誰のことか?いつのことか?
とページをあちこちめくりながら、事件のリアルな死体に驚愕し、
為政者の仕業に憤り、主人公とともに涙を流しているうちに、
一章からエピローグまで30数年、時は進んでいたのでした。
@文章に関していえば、
☆目的格を動詞の後に持ってきて終わる「私は食べた、りんごを」
☆体言止め=詩に多い
☆言葉を重ねて膨らませて表現していく。これらも詩の書き方と似ていると思います。
☆心象風景や事象を自然描写と重ねることの表現は見事というしかない。
題名(「少年が来る」)からして誰のこと?
と帰納的で実に象徴的な命名になっています。
最後のエピローグ「雪に覆われたランプ」を読んでみて下さい。
ろうそくは出てきますが、ランプは出ていません。
これらの自然描写は、かなり凄惨な描写を補強しながらも和らげてくれていると思います。
読後思い出したのは強引ですが「源氏物語」でした。
主語がなくカギカッコが一切なく(この時代当たり前ですが、
瀬戸内寂聴さんは現代語訳でカギカッコを入れてくれました)、
行変えもなく漫然と進められて極めて読み難い。
進行形と現在形が混在している。
作中人物たちの心象風景や動きが自然描写と絡み合って極めて美しい描写になっている。
また、お能によく似ているとも思いました。
喜びや悲しみ、恨みや辛さを体にため込んで、
できるだけ静かに動かないように舞う、
しかしながらその舞は身体に滞積されたエレルギーに満ちている。
作者の仕掛けはこのように何重にもめぐらされていると思います。
作者は渾身の思いで、手間暇かけて長い刺繍絵巻を作り上げたのです。
材質や太さや色の違う糸を選んで、合った針に通しながら、
どこにさすか?どんなステッチにするか?
何度も何度もほぐしたことでしょう。
私は井出俊作訳の本しか知りません。
韓国語では作者がどう書いているのか?
私の感想は訳された日本語特有のものであるためなのか?
韓国語を知らない私には知りようがありません。
ただこの小説を書いてくださったハン・ガンさんと訳者の井出俊作さんに感謝します。
そして、独りよがりの解釈だとしても、このような文体・文脈に興味を持ち
分解する喜びを与えてくれた日本語に感謝したいと思います。
次回・最終は忙しい方のために、登場人物紹介と章ごとの簡単なあらすじを追うことにより、
作者の本書にかけた思いを紐解いてみたいと思います。
紹介者:A.Nさん
「失われた日本を求めて」というオンライン・プロジェクトを立ち上げている、
京都在住のアメリカ人のケヴィンが、軽井沢の別荘の隣に引っ越して来た、
大使として主に南米を回って今は引退している夫婦と出会います。
恐らくはその大使夫人こそがケヴィンの求めている「失われた日本」の女性と思われたのでしょう、
貧しい移民としてブラジルに育った子供ですが、
天性の美しさと高貴さを備えていて、頭の良さも加わり大使夫人になって活躍。
大使にもこよなく愛されるも精神を病み、その回復を願って軽井沢暮らし始まった、
そんな彼女の半生をケヴィンが書くという形式をとっています。
トランプののせいでおかしくなってしまったアメリカの様子が時々書かれていますし、
日本の良き(とケヴィンが思う)文化を失った日本の今を批判していますから、
頃は一期目のトランプ大統領時代の頃のことです。
サスペンス仕立てで読みやすく厚い上下二巻はすぐに読めてしまいました。
セレブな人々の暮らしも体験できるし、教養も身に付けられるし、
戦前戦後のブラジル日系移民の歴史も分かりと、面白い本でした。
ただ、天性の高貴さを備えた婦人=貴子がどうも観念的すぎる。
古風で典雅で言葉使いも立ち居振る舞いも気品があふれ、お能や笛も吹く、
聡明で教養深く会話も機知に富んでいる・・・エトセトラなのですが、
筆力のせいでしょうか、香りが感じられないのです。
文面から匂い立つ香華がないのです。
貴子さんは動くお人形のようです。
本中で詠まれる和歌も教科書的、
あーこんないい歌があったのだと感動するような歌を披露してほしかった。
ケヴィンが進めようとしているプロジェクトの中身もよく分かりません。
確かに日本は今文化が変わってしまっています。
世界遺産・お能の日本ではなく、アニメ文化の日本。作者が書いているように、
京都に遊ぶ若者たちのちゃらちゃらした着物姿やふるまい、
安っぽい仕様になってしまったお寺の屋根、・・・等、
これは今に始まったことではないはず。
一体ケヴィンはいつの時代に戻りたいのでしょうか?
そこはまだ固まっていないと?これからの宿題ですって?
文化にも長い歴史があるのですから、最初に<どこに戻りたいのか>を
確認しておいた方がいいと、あたくし、思いましてよ。
作者・司馬さんが韓国に行った1972年5月は、光州事件が起きる10年近く前のこと、
しかもソウルでも光州でもない対馬に近く海に近い南の方を選びました。
裏表紙の7行はまさにこの旅の目的を簡潔に表しています。
10代の終わりごろから韓国に行きたいと思い、その宿題を果たすため、
反日運動たけなわの中、幼いころから韓国人の多く住む大阪に住み、
多くの友として交流してきた彼は、加羅・新羅・百済の故地を訪ね、
狭い海峡を挟んで古い昔から「分かちがたく交わってきたことを確認」するのが目的でした。
私は本書を読んだのは30代くらいの時でしたが、
通訳を始めとする韓国の人々との出会いや自然の描写は褪せることなく今読んでも瑞々しい。
そして、モンゴル語科に進んだ動機が手伝っているのか
日韓を越え東アジアへの深い学びが繰り広げられ、現地を見て帰納的に現在と結びつけ考え、
思うことを忌憚なく正直に書いていて、
現在韓国に興味ある私には新たな学びの場ともなりました。
@朝鮮語も日本語も、中国語とは全く別の流れでウラルアルタイ系=ツングース民族、
本家はモンゴル、そこから満州、朝鮮、日本に繫がっていてフィンランド、
ハンガリー、トルコに及んで、性格は本来荒く自由奔放。
全共闘の姿のように観念が爆発するところがある。とか
@日朝は同じ民族で、古来から多いに行き来し、豊臣時代の戦争は全く弁解の余地がないものの、
白村江の戦いは百済から依頼されたもの、負けてからは多くの百済人がやって来、
勝った新羅人までやって着て日本の政治、文化は彼らの活躍失くしては語れない。
書いているとキリがないし、
史学科ご卒業の方に常識のことばかりが繰り広げられることになると思いますので、
彼が多くの紙幅を費やしている儒教について書き留めたいと思います。
彼は儒教の罪深さについて書いています。
「朝鮮民族には凄みがある」と感じるのはなぜか?
気の毒なほど大国に囲まれた半島で滅ぼされることなく近代国家を作っている国は珍しい。
何千年も続き日本以上に歴史の長い国が
高々35年日本に支配されたのはどうということはないと思うが、
中国の儒教を国是とし、その後変えることなく500年続いた李朝支配が罪深いと思う。
うまく立ち回るために朝貢を行い、中国の政治体制や文化を模倣し、
中国に根付いた儒教を取り入れ優等生としての座を長く続けたが、
この儒教(孔子の教え)が曲者である。
形式を守ってこそ人間と社会が成立する、つまり一原理で膨大な数の人間を飼いならす、
自然のままの人間を認めない、生活の隅々まで管理していく。
もしかしてこれを文明というのだろう、ヨーロッパも儒教ではないがこの原理で動いている。
ただ、神父と官僚は職能として分離されていたが、
中国と韓国の官僚は儒教の牧師でもあり行政者であった。
日本は律令体制(儒教)の取入れに失敗し、日本としての原理・観念がないまま武士が台頭し、
力があれば誰でも天下を取れる体制で歩んできた。
古代から韓国人や中国人に「倭=背が小さく裸でいる」とさげすまれ続けたが、
この柔軟さが近代化を早めた、明治になって戦争と言う間違いを少し犯したが。
韓国は政治論理が最も鋭い民族だが、鋭いほど物事を産まなくなる、
抽象能力が政治を覆うと国が硬直する。
中国は文化革命で儒教を打ち破ったが、毛沢東思想に置き換えられただけ。
この一原理で国家を動かす政治体制は世界共通のもので日本の方が珍しい。
韓国はこれからどうするのか?
とまあ、明治を持ち上げた彼は源頼朝のお陰で、日本は近代化出来たと言っています。
この儒教については室町、江戸期の彼の論を聞いてみたいです。
一原理で生活の隅々まで規範化する禅宗と武士との関係、
「型」を取り入れた能が武士の式楽となっていく・、
茶道・華道の「道」化して型を継承し宗家の権威が続く文化、寺子屋の論語読みという教育等、
日本と儒教の関係は面白そうです。
この本の中で紹介されているシュヴァルの理想宮
https://www.youtube.com/watch?v=tCtI7FyrSEU
映画にもなったそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=UNNcvUg-d34
紹介者:M.Hさん
紹介者:M.Hさん
紹介者:M.Hさん
紹介者:S.Cさん
紹介者:S.Cさん
紹介者:A.Oさん
紹介者:M.Kさん
紹介者:M.Kさん
紹介者:M.Kさん
紹介者:M.Kさん
紹介者:T.Yさん
紹介者:管理人A
今年の「支部の集い」で講演をお願いしている先生の本です。
NHKラジオ第1の生放送「午後のまりやーじゅ」のコーナー
「クロサキマサオはテツガクの夢を見たか」
の中で2年にわたって語り下ろしたものです。
あらゆる分野のテーマでテツガクしてあり、
やさしい語り口で読みやすいです。
それにしても、クロサキ先生の趣味の広いこと!
テツガクより、そちらに驚かされる1冊でした。